第81話 Friedrich Wilhelm Nietzsche

 

火曜日にはまた比較政治のレポートがあるので

(2週間おきに3000字以上×3回)

 

そろそろ情報収集せねばならんとおもひて

 

早めに日を記すことを欲す。

 

[目次]

0. 序論

1. 社会契約

2. ニーチェ爆誕

3. おわりに

 

 

 

0. 序章

 

 

最近は

 

『同じスーツ、髪型の就活なんてダメだ!』

『みんなと同じ大学生活なんてダメだ!』

『周りに合わせず自分で進路を決めろ!』

 

だとか、近年問題視される『みんなと一緒文化』からの離脱

脱大衆主義の動きがでてきたところであります。

 

 

やはり、ここでWhyを問いたいと思うし

問いてしまうのがこの日記なのであると思ふ

 

 

 

『いや、そもそもみんなと一緒ってなに?』

『え?そもそもその概念いつ出てきたの?』

 

 

 

 

学校教育は同質化の象徴だ!

今の産業構造は同質化の象徴だ!

 

 

と、前世代の大衆主義をみて

 

我々若者は感じるでしょう。

 

 

が、一体その大衆主義は何故登場してきたのだろうか。

 

いや、何故そもそも『この何故』を問うのか。

(ややこしい)

 

についてまず考えなければいけない。

 

 

それは自分の周辺、次世代ラボ等では

 

インターンに行け!!!』

『他の学生と差別化しろ!!!』

『多様な価値観を取り入れろ!!!』

 

等の言葉が飛び交います。

 

 

が、だが、しかし、

 

それが、

 

なんとなくそれが正解な気がして

 

なんとなく周りに影響を受けやすくて

 

なんとなく意識高い感があって

 

 

それが理由であれば

 

それではただのポジショントークであり

それもまた『みんなと一緒』なのであるから

 

一生自分の軸ではいきていけないのである。

 

 

 

そこで今回は

 

『大衆主義はいかにして生まれたのか』

 

について考察していきたい。

 

 

 

歴史上、長い間

 

人類は『争い』によって覇権を奪い合ってきた

 

そこでの『善』と『悪』は

自国が生き残れるかが軸となっていた

 

隣人、隣町、隣国

 

『みんな一緒』の概念などなく

如何に相手の食料、土地、資金を奪えるか

 

勝てば正解、負ければ不正解であった。

 

 

 

 

1. 社会契約

 

まあ、月日は流れ、

1600年代

 

イギリスでは名誉革命によって

議会政治が誕生した

 

立憲君主制である。

 

議会の成立により

国民の意見が政治に取り入れられるようになり

国民の権利が強くなる

 

 

そんな名誉革命の背景にある考え方を生み出したのが

ジョンロックである。

 

ロックルソーモンテスキューで習う奴。

 

 

 

ロックは自然権を唱えた。

 

『自己保存』は人間が持って生まれた固有(自然)の権利

であると唱えた。

 

 

つまり、

 

『生命』『健康』『自由』『財産』

を脅かされた状態にあってはならないとした

 

 

だが、この『自然権』が危うい状況下において

 

『金がない。。。』

『食料が。。。』

『何か隣町が権力持ち始めて危ない。。。』

 

そんなことから自己防衛のための闘争が絶えなくなってしまう

 

 

そこでホッブズ

 

『自然状態』では『万人の万人による闘争』避けられないがため

 

『社会契約』が必要であるとした。

 

 

 

つまり、

 

 

自分が属する共同体に自然権の制限を許すことで

自分自身の自然権を最大限行使できるようになるというものである。

 

 

 

 

 

少し、簡単な例をあげてみる

 

 

まあ、以前バイトをしていた飲食店が

 

ショッピングモールにありまして

 

目の前が”をかしのまち岳”だったわけです。

 

 

自然権』を自由に行使できた時代では

 

『シゲッキクスを食べたい、、、』と思えば

 

その『シゲッキクスを食べる権利』を行使するために

相手店舗に攻撃を仕掛けに行くことは可能なわけです。

 

 

ただ、それと同時にまち岳さんは

 

うちの鶏が食べたいと思えば

その『鶏を頬張る権利』を行使できたわけです。

 

 

ただ、これでは動物が入れ乱れる『自然状態』同様で

 

『万人の万人による闘争』

を避けることができなくなってしまいます。

 

 

そこで、一部の『自然権』をショッピングモール本体に譲渡することで、『自然権』を最大限(自分の身が安全な範囲内で)行使する権利を手に入れたわけである。

 

 

相手店舗の『シゲッキクス』を勝手に食べることができない代わりに

自店舗の鶏も勝手に頬張られることはないのである。

 

 

 

そんなこんなで、自分の生命、財産を守るために

自分の『自然権』を制限することを選んだのでした。

 

 

 

そこで、こんな価値観が生まれます。

 

自然権』を安全せしめるものが"善"であり

自然権』を脅かすものが"悪"である

  ⬇︎

 『自然権』を脅かすような危険性が無さそうな

みんなと同じような奴は”善”であり

自然権』を脅かしそうな危険性を孕んだ

出た杭は”悪”である

 

 

これが大衆主義の始まりである。

 

 

2. ニーチェ爆誕

 

 

1800年代。

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ爆誕

 

ニーチェ、有名だよね

 

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休憩がてら、ニーチェの言葉を1つ

 

 

 

脱皮しない蛇は破滅する。

 

人間も全く同じだ。

 

古い考え方の皮をいつまでも被って入れば、

 

やがて内側から腐っていき

 

成長することなどできないどころか

 

死んでしまう。

 

 

常に新しく生きていくために、

 

私たちは新陳代謝させていかなくてはならないのだ

 

 

 

そんなニーチェの言葉からも

 

情報の大切さを感じるし、

 

その情報が古いのか、新しいのか

 

どういった背景を持ってるのかを知らなければ

 

その情報や価値観を自分のものにすることはできないのだと思う。

 

 

 

 

筆者はかなりこの時点で疲れ切っているのだが

 

先に進まなければならない。

 

 

 

次はニーチェのお話だ。

 

 

ロック、ホッブズの世界観は

大衆主義を生み出し

 

 

ニーチェはそれを『畜群』と呼んだ

社畜とかは、この『畜』からきているのかな?)

 

 

つまり、『みんなと一緒』を望む群衆である

 

 

 

時代と共に元の意を失うことがある

 

 

例えば、『貯金』

 

戦時中、国の軍事費のために貯金キャンペーンを施し

『貯金=善』の考え方を植えつけた

 

そんな価値観が

 

今日もなお利息0.00...%(忘れた)の銀行預金を

『当たり前』にしている

 

 

 

 

初めは『自己保存』のために『自然権』の一部放棄が

必要だったこの価値観も

 

のちに残ったのは、ただ『みんなと一緒』は"善"

という価値観だけであった。

 

 

 

以前は主体的に『みんなと一緒』を選んでいたのだが

『みんなと一緒』が当たり前となり

 

主体性が消え去ったのである。

 

 

『善悪』の基準が

『他人と同じであるかどうか』

 

そんな価値観をもった人間を

 

ニーチェ『奴隷』と呼んだ

 

 

人は次第に

 

『みんなと一緒』であるということ自体に

価値を見出すようになった。

 

 

ここまでの流れを読んでいただければわかるが

『みんなで一緒』の実質的な価値は遠く昔に失われ

 

謎に派生した価値観が今日も日本を支配している

 

 

ニーチェはこの『畜群』を嫌い

 

その『みんな一緒』から抜け出した者を

 

『超人』と呼んだ。

 

 

3. おわりに

 

 

おわりにっていうのが

 

やはり、締めであり言いたいことなんだけど。

 

 

つまり、『奴隷』文化を『超人』文化に変えることに

次世代ラボの意義があり

 

『奴隷』文化から出る勇気がない者に

手を差し伸べることができるのが次世代ラボなのである。

 

 

だが、時代は繰り返すから

 

 

やがて時代と共に『超人』が当たり前となり

皆『超人』の本質を見失い主体性のない『超人』となる

 

 

 

そんな時代が必ずまたやってくる

 

 

 

そんな時代の古い文化を刷新するのは

もしかしたら数世代後の『次世代ラボ』なのかもしれない